バンダアチェでは腐敗臭がすごいみたいですのでマスクを携帯します。長靴とか手袋も必要になると思います。感染病などが心配されます。薬類は大目に持っていかれるとよいかと思います。
でもロクスマウェはバンダアチェほどアナーキー状態ではないと思うので、スムーズに行くといいですね。
私たちは舅が中央ジャカルタのサレンバにある社会省で支援人としての推薦状をもらいました(無料でした)。どれだけ役に立つか分かりませんが、これを提示すると現地の救助派出所で食事など日常の必要に対しスムーズに行くようにはからってもらえるそうです。
このメールは●●さんのお名前を伏せてイチャのHPのアチェのページに転載させていただきますね。
また何かあればご連絡ください。
ワッサラームアライクム

独立アチェ運動の襲撃に備えて
南アチェ県シディカランの救援派出所地区で
警察機動隊員たちが警備に当たる。

バコガンとタパックトゥアンを結ぶ橋が決壊。
警察機動隊員たちがこれを眺める。
(写真上下とも、2004年12月31日金曜日、ジャカルタ紙ブリタ・フォト・レンサ1頁より)
Harian Jakarta http://www.harianjakarta.com
2005年1月1日(土)経過報告 本ページ用書き下ろし
アチェへ出発
災害があってからちょうど一週間の2005年1月1日(土)、舅と甥(両方ともアチェ人)がアチェへ出発しました。

家を出発する時
現地の状況
2004年12月31日の新聞によると、前日30日の23時30分(現地時間)までの11カ国の災害による死者は120,000人だとアソシエイツ・プレスが伝えている。一方、インドネシアでは災害による死者80,000人。援助物資を運ぶパイロットたちによると、アクセスが困難になっている地域で見られる遺体の数はますます増えているという(インド・ポス紙)。まだ手付かずで転がっている遺体(中には家の屋根に乗っかったままだったり、電柱か電線にひかかったままだったりしているものも)の腐敗臭は日に日に強くなっている。5日間家々の残骸にまみれて横たわり死体だと思われ回収されるときに発見された被害者の話や、ほとんどアクセスが断絶しているムラボから徒歩でバンダアチェまで4日間森の中を斧一つだけを片手に歩いて家族の家まで到着した人の話など、驚異的な話が数々聞かれる(今日までの新聞やテレビのニュースより)。前のメールでお伝えしたムラボへ死に物狂いで行った人は陸路ではなく舟に乗って海路を経由したそうです。その人は他の人には、危ないので舟で行かないようにと言っているとのことです。
家族の一人が見つかった
12月31日に親戚から伝えられたところによると、舅の姪がバンダアチェで見つかりました。なんと、海へ流されて3日間海面に浮かぶ倒れたヤシの木に捕まっていたそうです。舟に乗って家族を探している漁師によって見つけられ救助されたとのことです。学生で最近は卒業論文に励んでいたという彼女は、親族によってメダンに連れて行かれ、今日ジャカルタに到着し舅の姉の家に引き取られるとのことです。彼女の両親と妹弟たちはいまだに行方不明です。
着陸して写真だけ撮り去っていったヘリコプター
おかま芸能人のドルチェ(ハッジャなのだそうだ・・・)によると、彼(彼女と言わないと怒られるだろうけど)はいてもたってもいられず災害が起こってからまだ日にちが浅い時、一人でバンダアチェに行き救援活動に加わった。ひとつのヘリが飛んできて着陸したかと思うと人が降りてきて被災地の写真をいくらか撮った後。またヘリコプターに乗って遠くの空に消えていったという。「援助をしないで立ち去っていった。募金活動の宣伝に使うために写真が必要だっただけなのだ。なんという奴ら!」と彼は言う。
彼によると、彼が回りにいた人たち(援助人なのか?)に声をかけて遺体を運んだが、彼らは報酬として200,000ルピアを要求したという(今日のテレビ)。
援助という名の金儲け
どこかの新聞(昨日は3紙買った)に書いてあったところによると、マガイモノの援助派出所がたくさん出現しているという。確かに道々では募金箱を持って歩いている人がたくさんいるのだが、彼らの顔つきを見るとどうも不良?ぽっかったりするときもある。こういう雑魚タイプのものもいるけれど、鯛タイプ(つまり大きなスケールだということです)のものもあるようだ。援助を妨害して金儲けをする人がいるのだという。そういう人たちが救助隊が怖気づくようなデマを流したりしている・・・と舅が言っていた。政府なんかの官僚は援助金を懐に入れているとよく言われているし、怒りがこみ上げてくる。
また明日にでも経過を書きます。この一週間連日の寝不足で少々疲れ気味ですが、インシャーアッラー、このアチェの援助をとても小さな規模ですが続けます。
2005年1月1日(土)イチャが書いたメールより Saturday, January 01, 2005 10:49 PM
アッサラームアライクム
○○さん、ありがとうございます。
約10人の方から義捐金を20万円ほどお預かりしています。詳細は今後お知らせします。
今日、舅がアチェに出発しました。予定では今日バンダアチェに到着するはずでしたが、飛行機が飛ばず今晩はまだメダンです。
現金をあまり多く持ち歩くのも不安なので100,000ルピアの封筒を80個だけ作って被災者用に持って行きました。大勢に嫉妬をかわれることを避けるため、道々や礼拝所などで会う困窮している人々にひとりずつこっそり渡す予定です。不公平のようですが、大勢に平均して援助することができないので、これが精一杯のできることかなと私たちは考えています。
お腹が空いた被災者がお店で盗みをするという話も聞かれます。聞いた話では、せいぜい家族の2〜3日分の食料になるであろう何キロかの米、砂糖、コーヒー、インスタント麺や卵を持っていったのみで、もっと高価な金目のものは手付かずだったのだそうです。
アチェ災害と援助の報告ページを作りました。
可能な範囲で当分の間毎日更新したいと思っています。
ご覧ください。
ワッサラームアライクム
2005年1月2日(日)経過報告 本ページ用書き下ろし
災害から1週間を過ぎました。イチャの家の上空はちょうど軍機の通るところで、この1週間、日中ひっきりなしに飛行機の音が聞こえてきます。家からわりと近い国軍基地からも大勢の軍人が援助に向かっているし、援助物資を運ぶアチェに向かう飛行機の音なのでしょう。以下、いろいろな新聞(メディア・ポス、メディア・インドネシアなど)やテレビニュースより被災地状況報告です。
様々な生還物語
皆様にお伝えしたいことはいっぱいあるのに、書ききれないでいました。こちらの新聞などから伝えられている被災者の生還物語をいくつかご紹介したかったのですが、あまりにもたくさんの物語がありとても書けそうにないので詳細はやめます。
バンダアチェの大モスク、マスジド・ラヤ・バイトゥルラフマンで、数十人のハッジ予定者のハッジ指導をしていたイマーム(導師)はそこでは一人だけ生き残りました。モスクは背の高い建物なので上部に避難できたかというととてもそんな暇はなく、突然水が押し寄せたのだそうです。誰一人残らず水に流され何かに引っ掛ったかで彼だけが助かりました。いろいろな人の話を聞くと、水が押し寄せてきたときすごい音がしたのだそうです。突然、6〜7メートルもあろうかと思われる水が押し寄せてきたという話もあります。車に乗って逃げてもとても逃げ切れるスピードではなく、それで多くの人が移動中の車の中で亡くなっています。
あるお婆さんは事態を悟ったあと急いでクルアーンを手にしヤーシーン章を読み続けたそうです。とても逃げ切れるものではないと悟ったためです。そして水がやってきて飲まれてしまいましたが、やはり何かに引っ掛ったかで助かりました。多くの人は自分の家族を助ける暇もありませんでした。妻と子供を抱きながら走ったが押し寄せる水に対抗はできず、腕の中の妻が流され、子供だけを抱いて車に乗せたのだけど知らないうちに水にさらわれていなくなってしまった人がいます。この人は水に流されてゆきある所で廃墟に埋もれ止まりました。自力では上に上がれません。そのとき、誰かの手か差し伸べられ彼は引っ張られました。誰なのかまったく分からなかったとのことです。彼はスンダ人です。気がつくと目の前にはバイトゥルラフマンモスクがありました。水に流された人の多くは体中に傷を負っています。目に何かが刺さった人もいます。
今朝のテレビニュースでは、6日間海で流された材木に捕まって過ごした後救助された年配の女性の話が報道されていました。のどが渇くと海水を飲んで過ごしたそうです。何日も真っ暗闇の夜ひとりで浮かび、どんなに心細くどんなに寒かったことでしょう。
今日の夕方のテレビニュースによると、17歳の男の子が海上で転覆した舟に捕まっているところを災害から8日間目にして発見されました。足は骨折しており、脱水状態になっていますが、まだ話をすることができる状態でした。マーシャーアッラー。
流星の落下
大晦日の朝5時ごろ西ジャワ州のチアンジュールというところで流星が落ちました。その時私はコンピューターの前に座っていたような気がします。爆弾に似た変な音を聞きました。アチェ大地震が起こる一週間ほど前にも、ジャカルタ郊外の避暑地で有名な西ジャワ州のプンチャックというところで流星が落ちているそうです。世紀末の兆候のような嫌な現象が続きます。
死の町ムラボなどにアクセス可能
町へのアクセスがほとんど不可能で援助隊が向かうこともできなかったアチェ西海岸のムラボへ車がでるようになりました。被害が比較的大きくなかったタッパクトゥアン(ムラボより西南に約160キロ)から車を600,000ルピアでチャーターできるのだそうです。一人当たり50,000ルピアということなので定員12名のようです。また同ルートには漁師たちの漁船も出てくれているようです。3時間かかり40,000ルピアだそうです。ただ、メダンからタパックトゥアンまでの陸路がバコガン地域の3つの橋などの崩壊で困難になっているようです。タパックトゥアンでは電気や携帯電話などがノーマルとは言えないまでも使えるようになっているとのことです。今朝バンダアチェに到着した舅が状況によってはムラボに行ける可能性が出てきました。ムラボにはアメリカなどからの援助物資がヘリコプター経由などで届いていますが、テレビの映像では着陸するヘリコプターを見つけて被災者がたくさん走り寄ってきて、まるで奪い合いのように手を差し伸べていました。
援助物資が届かない避難所で死んでいく人々
1週間まったく食べていない人がいったいどれだけいるのでしょう。ウレカリン(Ulee
Karing)のパペウン・モスク(Masjid Papeun)避難所やアチェ・ブッサルのシブレ(Sibreh)にある4つの避難所では6人の被災者が亡くなりました。彼らの年齢は40〜50歳ぐらいで、体の内外に傷を負っていました。モスクの管理人によると、この6人の人たちは薬さえ届いていれば助かったと言っています。
物資援助よりも現金援助を!!
メディア・グループ(新聞メディア・インドネシア、メトロTVなどのグループ)は今日の新聞で、人々から届けられる物資援助の受付を一時終了すると伝えた。同グループに集まった物資は20,000トンを越えており、輸送分配分野が追いついていない。現金による援助が呼びかけられている。
テレビに登場した女性歌手クリスダヤンティはジャカルタの支援受付所にやってきて(たぶん)現金を寄付した。彼女は「物資は集まりすぎて輸送分配が追いつかない。今は物資でなく現金支援を!」と呼びかけていた。
知人たちの被災地
在ジャカルタの友人アフマドさんの奥さんの実家があるバンダアチェのウレレ(Ulee
Lhue)のウッレル(Ulle Leu)地区などで腐敗した数百の遺体が回収された。他地区の河川地域では数百の遺体がまだ回収できずに浮かんでいる。
イチャの店のお客さんの一人のご主人の田舎ビルン(Bireun)県サマラガ(Samalanga)郡ブランタンブ(Blang
Tambu)避難地域では被災者たちの大部分が自家製テントに泊まっている、残りの人々はモスクの周辺に泊まっている。救援物資をメダンから運ぶ数百のトラックが同地域で物資を下ろしているのが見られる。同避難地区では入浴施設がなく、用を足すときには水田に行くという。(おそらくアチェ全域で)85箇所の避難地区に154,001人の避難者がいる。ビルンは避難者を最も多く抱えている地域で、避難者45,785人(うち避難所4箇所を持つサマラガ郡に23,053人。うちシンパンマタン村に23,053人)。続いて多いのが北アチェ県で45,404人。ピディ県で32,823人。東アチェ県で17,425人。人々は避難所として広場に集まるほか、多くはモスク付近に集まっている。
舅からの報告
バンダアチェにて無事だった親族の家に向かい、家の周辺を見て回る。援助物資の配給にとてつもなく長い行列ができていた。まだそのまま転がっている遺体や崩壊して平らになった街の景色に涙。病院は負傷者であふれかえっている。義捐金の封筒はいくらか配ったので、今数を数えて日記をつけているところだと言っていた。明日は弟の家があった地域の周辺で弟家族の手がかりを探しにいく。しかし、弟の住んでいた地域の家々は崩壊して無くなってしまっているという。

瓦礫とともに黒い水に浮かぶ遺体。
あまりにも大量なため回収が難航している。
(2005年1月3日月曜日、トゥルビット紙トップページより)
Harian Terbit http://www.harianterbit.com
2005年1月3日(月)経過報告 本ページ用書き下ろし
昨日は就寝する10時過ぎになってもイチャの家の上空で飛行機の音がしていました。
以下、いろいろな新聞(メディア・インドネシア、インド・ポス、レプブリカなど)やテレビニュース、友人知人親戚の話より。
手足を切断しなければならない負傷者
医療援助の遅れによって負傷者は十分な治療が受けられないでいる。傷口が化膿しウジがわく。ほおっておけば身体の他の部分に化膿が広がり生命に支障をきたす。止む無く手足など身体の一部を切断しなければならない人たちがいる。そういう人たちがいったいどれだけいるのだろう。昨晩、在ジャカルタのアフマドさんとその奥さん(バンダアチェにご実家がある)と電話で話をした。彼女の親戚でバンダアチェの病院に入院している女性がいるが、身体の一部を切断しなければならないかもしれず、ジャカルタで治療を受けられればいいのだが、ということだった。今日、アフマドさんの奥さんは親戚の人と一緒にバンダアチェへ向かう。
援助の遅れと政府の援助拒否
アチェに駐屯していた軍人自身も数千単位(だったと思う)の死傷者を出しているが、救助活動の重要な部分で軍人の担う役目は大きい。例えば、崩壊した家々の残骸などで塞がってしまった道や決壊した橋の整備、遺体の収容、救援物資の配給などは軍人たちに頼られている。アクセスが困難な地域に救援物資が届かないのは、現地へのルートが途切れているから理解できないこともない。でも、援助の規模が絶対的に足りていないのは、全国の兵力を被災地に集中させている度合いが足りないのだろう。人々の苛立ちは政府へ向けられる。
海外のNGOが被災地で活動を制限されるのにも理由がありそうだ。「援助ビジネス」の利益を確保するため、現地NGOやおそらく政府などの一部がエージェントの役割を果たしているのではないだろうか。このようなことはインドネシアだけでなく、今回の災害でインドなどの他国でも起こっているらしい。加えて、アチェは独立運動を規制するため長く軍事特別地域となっており、相当の国軍の兵力が配置されているらしいので、外国人の入域について政府は敏感である。政府にとって不利な情報が国際世界に流出するのを恐れているのだろう。この混乱状態の中、アチェ独立運動ゲリラが国軍によって射殺されるということが起こっているようだ。
売買される子供たち
50人(?)もの子供たちが誘拐されたというニュースがあった。以前からインドネシアでは子供の海外売買ルートがあり、一人何百万ルピアという単位で売られるのだそうだ。売春産業である。こういう悪魔ビジネス家にとってまたとない絶好のチャンスとなっているのだろう。子供たちから目を離してはいけない。
養子として引き取られる孤児たち
この他にも災害によって孤児になった子供たちを養子に取るなどして引き取ることを希望する人たちの動きがあるという。インドネシア共和国憲法によると養子というものは引き取る親と養子が同宗教でなければならないという。子供たちを守ろうという動きが出始めているが、その皮切りに大統領スシロ・バンバン・ユドヨノが何人かを早速養子にすることになった。この養子になる孤児のうちの一人について「私が姉です。弟を私に返して欲しい。彼だけが生き残った唯一の家族です。インシャーアッラー、私は彼を学校に通わせます。」と名乗り出る女性がいた。彼女の財産はきっと壊滅したであろう。なのに、なんという素晴らしいプライド。アチェの女性の強さを垣間見た思いだ。
忍耐強いアチェの人々(イチャが昨日書いたムスリム向けのメールより加筆)
昨日私も尊敬するイスラーム学者のクライシュ・シハブがテレビで講話していた。彼の話を聞いて、私は涙ぐみながらも感謝し安堵しました。
アッラーに「どうしてこんな試練を私たちに与えるのだ」というような悪い感情を持ってはいけない。泣きたければ泣きなさい。預言者ムハンマドでさえ身内に不幸があったときには泣いたのです。アッラーはこの地を選び私たちに試練を与えられただけでなく、亡くなった人々には殉死者として天国を与えたのだ。担ぎきれない負担をアッラーは下僕に与えない。今回のような災害は人間が如何に努力しても避けきることはできなかっただろう。それだけアチェの人々は忍耐強い人々だということなのでしょう。私たちは悲しいけれど、アッラーには私たちの想像がつかないご計画があるはず。現世はあっという間だが来世はもっともっと長い。どんな辛い試練にもヒクマ(英知)が含まれている。・・・というような内容でした。この他、質疑応答で「まもなく犠牲祭だが、犠牲動物を提供するのはこのような状況の中奨励されるのだろうか。」という質問があった。犠牲を供するのはスンナ。今のような状況下では我々の仲間を助けることは義務にさえなりえると私は思う・・・と答えられていた。
アチェ(北スマトラの二アス島も相当の被害を受けた)の災難に国中が衝撃を受けていますが、私自身こんなにショックなのは生涯初めてです。涙が途切れない日はありません。アッラーは私たちに最後の日のこと、来世のことを思い出させてくれました。アチェで亡くなった99%ぐらいはムスリムです。イスラームが最も根付いていて、辛抱強い人々が住む地です。「人間は誰でも死ぬ。アッラーのご計画なのだから仕方がない。家族には来世で会える。」と語るアチェの被災者が多いのには感動します。確かに誰が早く逝くかどうかのちょっとした違いがあるだけで、人間は一人漏れなく死にます。今、私たちの目に映るすべてのものはどれ一つとして来世に持っていけません。全てのものは預かり物に過ぎないのです。家族も私たちの預かり物です。私たちがこのつらい経験からヒクマ(英知)を得られますように。現世だけでなく来世にも反映されるこのヒクマこそがアッラーの恩恵なのです。
被災者の数
昨日までのデータではアチェ州全体で死者80,259人。うち、15,000人が州都バンダアチェとアチェジャヤ県での死者。行方不明者約1,542人。入院患者2,086人。避難者108,083人。崩壊した家41,783軒。遺体は政府によって現在1日あたり約4,000体が回収されるようになった(今朝の新聞レプブリカによる)。遺体を回収しようとして引っ張ると腐った肉がこそげ落ちていくという。
より安全な場所を求めて
バンダアチェの被災者が比較的被害の大きくなかった同市東部のピディ県に移動している。ピディ県の14箇所の避難者は4万人に膨れているという。ピディ県関係者によると、バンダアチェの避難者から病原菌が運ばれてくるという。バンダアチェでの大量の遺体にたかるハエが傷口にとまるなどして感染した病原菌だという。ピディ県首都シグリはまた、西海岸のムラボの被災者の目指す地となっている。衛生状態が悪く、人々は呼吸器病、感冒、熱病、皮膚病になっている。この3日間同地では突風や豪雨が朝から晩まで続いたが、このような悪天候も病気を引き起こす原因の一つになっている。
発見されず力尽きる人たち
海上に1週間も浮かんでいた人や家々の残骸に埋もれてやはり1週間以上も動けなくなっていた人たちの話が一人二人と報道され続けている。負傷している上、絶食状態で最悪の環境の中において生き続け救出された人の話に驚く。このような話を聞いて考えられるのは、逆に発見されないゆえ人知れず息を引き取っている人が毎日いるだろうということだ。避難者の多くにおいても、食料援助がなく1週間も食べていない。
2005年1月4日(火)経過報告 本ページ用書き下ろし
以下、いろいろな新聞(メディア・インドネシア、インド・ポス、レプブリカなど)やテレビニュース、舅の報告より。
アチェの舅からの連絡
昨日はバンダアチェの舅の弟家族の家のあったランバロ(Lambaro)という地域で手がかりを探しましたが、成果はありませんでした。
ランプ・ヌルット(Lampeu Neuruet、正確にはバンダアチェではなくバンダアチェ郊外)の親戚の家を今日発ってメダンに向かっていると夜7時ごろ同行の彼の甥から連絡がありました。飛行機が取れなかったのか、公共の車での移動です。たぶん10時間以上かかります。何も障害がなく無事に着けばメダンには明日の朝到着するだろうとのこと。携帯電話を通じての連絡です。メダンに付いたら舅から電話するとのことでした。メダンに行くのは、これから舅の故郷のムッケ郡に行くためです。ムッケの舅の実家(空家)にはバンダアチェで3日間海上に浮かんでいて救助されたRちゃんが保護されているとのことです。舅がジャカルタを出発するときは、このRちゃんはジャカルタの舅の姉の家に引き取られるとのことでしたが、間違いで、ジャカルタに着いて姉の家にいるのはムラボの姉の子であるI君だということです。RちゃんとI君の情報が今まで逆になって伝わっていたのでした。故郷ムッケから被害の一番ひどかったムラボに行くのが本望なのですが、状況が許すかどうか・・・。
死の町ムラボへの道のり
メダンからバコガンまでは陸路で行けるのですが、バコガンから先は三つの橋が崩壊しているため陸路は無理。漁船で3.5時間料金5だか60,000ルピアでタパックトゥアンに行かなければならないという。タパックトゥアンからムラボへは陸路が通じているようだ(レプブリカ紙を読んだ感じではそういうことなのだが、新聞記事は表現が怪しいかなと思うときもある)。ムラボへは空路経由でも援助物資が届き始めているがまだまだ不足状態のようだ。この町の海岸線から数キロのところは新聞の写真で見ると真っ黒で、どこの地区のものなのか見渡す限り真っ黒の広場の真ん中にひとつだけ壊れず残っているモスクがあった。真っ黒の広場とは泥に埋まった町の景色なのである。なんと深さ3メートルもの泥によって埋まってしまったのだという。
精神的に強い子供たち
大統領の養子になることを逃れたワンダ君はテレビで一躍有名になっていた。彼は13歳で中学1年生。バンダアチェで被害から逃れた姉夫婦の家に引き取られるようだ。ワンダ君自身が養子になることを希望しなかったのだという。理由は「知らない人だから」。彼は避難するときに幼い子供を背負って高台に向かって走ったという。それも一人で、誰に言われたわけでもなく、である。
テレビで若干4〜5歳の被災者である女の子と男の子がインタビューを受けていた。「また津波がきたら怖い?」と聞かれて「怖くない。」と答える。「どうして?」と聞かれ「言うから。」と答える。「何て言うの?」と聞かれ、確か4歳ぐらいの女の子の方が「アスタグフィルッラー(アッラー、お許しください。」と答え、5歳くらいの男の子の方が「ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はない)・・・。」と答えていた。つまり死を恐れていないということになるのだろうか。すごい!
まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、まもなく日付が変わる時間になりますので今日はこの辺で終わります。続きはまた明日にします。インシャーアッラー。
2005年1月5日(水)経過報告 本ページ用書き下ろし
以下、いろいろな新聞(メディア・インドネシア、インド・ポス、レプブリカなど)やテレビニュース、舅の報告より。
舅からの連絡 〜舅の病気〜
今朝、舅から電話がかかってきた。メダンに着いたとのこと。更なる義捐金を送金したいので、イチャの利用しているシャリア・マンディリ銀行のメダン支店で口座を開設して欲しいと要請した。舅は銀行にあたってみるということだった。これから舅は実家のあるムッケ郡を基点にタパックトゥアンに入りさらに被害の最も大きかったムラボに向かい彼の姉家族の手がかりを探す予定なのだ。先日ジャカルタから持参した義捐金800万ルピアはほとんど配りきってしまったのだが、新たに義捐金を送金すればムラボで配ることができるという私の考えだった。舅はムラボへの道のりは厳しいと言っていた。たしかに、陸路が切断されているので漁船に何時間も乗ったり、普通じゃない大変な道のりである。それでも、舅は私の提案に賛成したのだった。
しばらくしてまた電話がかかってきて、一度ジャカルタに帰るという。8年位も前だっただろうか手術したことがあるヘルニアがぶり返して辛いという。ジャカルタに一度帰って手術を受けて、それからまた出発しなおしたい、と言う舅に私は驚愕し、申し訳ない気持ちになった。そんなに無理しなくていいのに・・・。「お父さん、無理しないで帰ってきて! 今度はバンダアチェ〜メダン間のようにバスに乗ったりせずジャカルタには必ず飛行機で帰ってきてね。」という旨を伝えたのだった。歳のせいもあるし、疲労がたたったせいもあるだろう。無理をするのが常で、舅のことだから、この災害時にチャンスとばかりに値上がりしている飛行機代を少しでも節約して、その分被災者を援助したいと思ったのかもしれない。バンダアチェに降り立って街を見た瞬間泣いたという舅は、目にした大勢の被災者のことを、可哀そうだ可哀そうだと何度も繰り返し言っていた。
バンダアチェでは結局、新たに親族の生存は確認されず、生き残った近い親戚は、舅の甥1人(彼の姉の子)と姪1人(彼の弟の子)のみです。つまり主人の従兄弟。ジャカルタから舅に同行した彼の甥(Pとしておこう)はバンダアチェに残りさらに家族の手がかりを探すという。つまり舅はメダンにて一人である。そうこうしているうち夕方、この甥Pから電話があって、舅の弟の奥さん(バンダアチェのカンプン・ジャワ)が無事だったという。3日前に発見されたらしい。精神的ショックを受けているが健康だという。
夕方になってもう一度舅から電話。さっき国軍病院に行って注射を打ってもらい飲み薬ももらった。もう治ったのでムッケには行く、という。一時的に治ったかもしれないけど被災地なんかでまたぶり返したらかえって人の迷惑になってしまうだろう。舅はジャカルタに帰るのは交通費の無駄だと言う。確かにその通りなんだけど、舅の健康状態のほうが今は大事。舅はちょとだけ弱気になったみたいで、ジャカルタから義捐金を調達するため、また舅の同行者として彼の息子Sをよこすように要請してきた。昨日は、私が同じことを提案したら、それより口座を開設して送金したほうが節約でき効率的だと言っていたのに。どうなるかは、今晩主人と義弟Sが帰ってきてから家族会議で決めることになる。
被災地の様子〜中央と地方の差〜
バンダアチェの中心部では急ピッチな整備が始まり、遺体はほとんど回収され見当たらなくなった。電気、電話も(おそらく一部で)復活した。町の中心部のいくつかの市場では活気がよみがえり賑わいを見せている。市場での物の値段は当初跳ね上がっていたが、今ではノーマルな状態に戻ったという(たぶん物によるのではないかと私は想像するのだけど)。街の顔であるバイトゥルラフマン・モスクでもアザーンが復活し礼拝ができるようになった。でも・・・これは中央集権的な政府のやり方の反映のような気がする。他地域にはいまだに援助物資が十分に届いていない。トイレもないし、浴場もなければ、お料理もできない・・・泥水で洗濯するような最悪の衛生状態の所が多いという。このような悪環境の中、避難所では治療も受けられないまま100人もの子供たちが病気になり亡くなっているらしい。
くたびれた古着は放置
ムラボでも一部市場が始まっているという。家も財産も無くなり、身につけた服だけが唯一の財産である人が多いらしい。援助物資の古着もじょじょに届いているようだが、いかにも古着という感じの衣類は人々がそれを身に着けることを拒否するのだという。それで、役立たずの衣類がそのまま放置されているという話もある(ムラボだったかバンダアチェだったか)。災害にあったその日の衣類を着替えることもできず、そのまま着続けているというのに。私たちの託した古着は大丈夫だろうか?と不安になった。アチェの人々はプライドが高い。「私たちは被災者であるが乞食ではない。」ということなのだそうだ。いかにもという感じの古着は誇り高い彼らの心を傷つける。
お金がある人はアチェを出る
災害のあった当日、バンダアチェから多くの人が飛行機などでメダンに避難した。メダンのホテルは一杯なのだという。お金のある人は家族ぐるみで飛行機代も払えるのだろう。華人の大部分もこの時メダンに移動した。航空会社は援助物資などに対しては一部運賃を無料にしたりもしているようだが、普通の旅客機の運賃は概ね値上がりしている。アチェに出入りする旅客機は増便されているが、一方で無料にし、そのまた一方で値上げすることによって丁釣りが合っているのだろう。バスも舟も値上がりしているのだろう。災害後の臨時交通手段ともなればなお更高くなる。ガソリンが不足し、一時は1リットルが1万ルピアもしていた。車があってもガソリンがないので、現金よりガソリンで車代を払って欲しいと言っていた車の持ち主がいた。今では状況が良くなっていると思うが、辺鄙な所ではどうだろう。
家も財産もなくした人はアチェを脱出するわけにもいかない。それでも外部からお金持ちの親戚が助けてくれればラッキーである。親戚が皆被災地に集中していた人は外部から親戚もやって来ないことになる。物資支援の一方、現金支援が叫ばれるのはこのような状況において、いくらか有効なのである。ある宗教指導者は健康な被災者を1日4万ルピアの報酬で遺体の片づけをやらせていたという。これはちょっと可哀そうな話である。小銭にもかかわらず現金を手にするために被災者自身が働く(ほんの一部での話だと思うが)。
アチェ独立派が援助を阻害?
独立運動派ゲリラと国軍が撃ち合いになり、グループ側が射殺されるという事件が数日前(だったと思う)に起きていた。国軍の援助物資を積んだ車がゲリラによって阻害されるということもあったという。政府の言い分である。ゲリラは普段から山間部や森林地帯に潜みながら、国軍の兵士を見つけては攻撃するというゲリラ活動をしているという。ゲリラも軍も普段から民間人を大量に犠牲にしてきたらしいので、どちらの言い分も分からない・・・。
腐敗した遺体は病原菌ではない
遺体が強烈な腐敗臭を放っている。人々はマスクをするのが常である。この瓦礫の中にごちゃ混ぜに倒れて腐っているたくさんの遺体を早く埋葬しないとさまざまな病気が蔓延するという。この人々の思い込みに対し、ある医者がそれは間違いだと主張していた。遺体ではなく、汚染された水や衛生環境が病気をもたらすのだ。きれいな水がないため、人々は川で入浴したり、泥でにごった水溜りで衣類を洗ったりしている。バンダアチェでご飯の配給があった時、人々は様々な容器を持参していた。その中には洗濯やモップがけに使うバケツ、ペンキの空き缶(プラスチック製かもしれない)などもあった。家ごと流されてしまった場合、きれいな容器なんて持っているわけがない。
4日のレプブリカ紙では、遺体を焼くことを奨励している医者とそれに反対する医者の話があった。前者は場所も時間もかかる土葬に対し火葬は効率的だし、病原菌を殺すことになると言う。後者は津波で亡くなった遺体は病原菌の巣ではないから、各宗教の埋葬法に敬意を払わなければならない(つまりイスラームの場合、土葬)と言う。腐敗し臭い液体を流している遺体を担ぎ上げる人たちの手にはその液体が付くことがあるが、それで感染したと言う話はないという。それでも遺体を回収する人は手袋を付けることが奨励されている。
海岸線が変わり島が沈む
衛星からの写真によると、バンダアチェの北海岸の半島状に突き出た部分では海岸線が住宅地側に進み、住宅地だったところが沈み、海になってしまった。ある島(ナシ島かその近く)では島の一部が水没し島が二つに分かれてしまったという。
2005年1月6日(木)経過報告 本ページ用書き下ろし
以下、いろいろな新聞(メディア・インドネシア、インド・ポス、レプブリカなど)やテレビニュース、舅の報告より。
舅からの連絡〜実家ムッケ郡に向かう〜
本当は主人も私も他のみんなも舅が一人で実家のムッケ郡に行くのには反対だった。ムッケから被災地ムラボに向かうことができればいいと私も思っていたけれど、舅の健康状態には変えられない。主人も説得しようとしたのだが、結局舅の強い意思に負けてしまい、舅は今日ムッケに向かうということだった。メダンの南アチェ被災者避難所に寝泊りしていた舅はそこから同郷に向かう人のグループがあるので、まとまって車で出発するという。被災者用の現金はバンダアチェでほとんど配りきってしまったので、今度はムラボ用に10,000,000ルピアを用意する。舅には封筒を買って用意しておくようにお願いして、今日の昼ごろジャカルタのシャリア・マンディリ銀行で舅の口座に入金した。同銀行メダン支店にて引き下ろしたという連絡があった。ヘルニアはもう大丈夫というが、何しろ一人だし、病気になったら他の人に迷惑をかけることになりかねない。それでも、ここまで来て故郷に寄らないのは悔いが残るからであろう。
被災地ムラボの様子
街の80%が崩壊したというムラボでは野菜や日用品売りが出始めている。災害を逃れたムラボUやプロイ、ムクなど田舎のほうからの品だという。特にルンデン交差点では比較的たくさんの物が売られている。公共交通機関も一部再開し始めた。ムラボ−プリンベは通常運行。ムラボ−ブランピディとムラボ−ジュランも運行され始めている。街のあちこちで人々が泥に埋まった家や店の瓦礫の片付けや清掃をしているのが見かけられる。人々の中には瓦礫を焼いている人もいる。家の瓦礫の下に遺体があったので腐敗臭が消えるようにそうしているという。崩壊を間逃れた約7,500軒のうち約1,000軒に電気が通るようになった。
しかし、ムラボへの効率的な援助はいまだにできていない。メダンから6時間のバコガンで橋が決壊しているからだ。空路か海路による物資運搬しかできないのである。メダンでは山積みの援助物資が溜まっている。ムラボ行きの物資を積んだトラック(空路か海路しかないというのに、途中までは陸路で行くということなのだろうか)はメダンで国軍によって足止めとなっているらしい。陸路が元通りになれば、カバンジャへ〜シディカラン〜スブルッサラム〜バコガンルートでタパックトゥアン経由ムラボ行きが可能となるが、そうなるまでには一週間以上かかるらしい。
電気、燃料が入り始める
災害時アチェ全体で停電になっていたというが、現在までにバンダアチェでは約80%、ランサ約100%、ビルン約95%、タパックトゥアン約95%の建物で電気が使えるようになっているという。バンダアチェやムラボへのガソリンや石油などの燃料も入ってき始めている。バンダアチェへはデリやロクスマウェの港から供給がある。ムラボへはデリ、シボルガ、シンキル経由メダンの港から供給がある。バンダアチェでは政府機関も一部再開し始めた。制服は失ったので短パンやゴムぞうりを履いて出勤する人も多いようだ。
援助のない小さな町から大きな町へ
ニュースばかりみていると州都バンダアチェの情報が多いので、だんだん良い状況になっているように見えるのだが、実はその影で取り残されている田舎や小さな町があるのである。援助がちっとも来ないので止む無く徒歩大きな町に向かう避難民も目立つ。
援助人は相当の覚悟を
あるお医者さんがレプブリカ紙で援助人に対する忠告をしていた。援助人とはとても追いつかない遺体回収を国軍兵士と協力して手伝う人を主に意味している。精神的にも体力的にも強くなければならない。耐え切れずに帰ってしまった者もいるという。また、服装は顔も含め全身を覆い病原菌に犯されないようにする。帽子、手袋、ブーツ、マスクなどが必要であるし、これらの物は使用後よく洗い干しておくようになんて書いてあった。そこまでしている人がどこまでいるだろうか・・・と思ったのだが、注意しないとやっぱり腐敗した遺体はお腹の中に病原菌を持っているので経験のある人のほうがいいのだという。特にうつ伏せになっている遺体は腹部が破裂しないように注意が必要だという。
結局兵隊さんが一番活躍している
政府の悪口を言う人は多いが、結局国軍兵士が一番活躍している。もちろん国内外からの援助は役に立っているし、外部の援助は国軍によって制限されるのでそうなるしかないのだろう。下級兵士はおそらく少ないお給料で身を危険にさらしながら働いている。彼らの家族だって犠牲者なのだ。
数から見る被害からは分からないこと
死者94,000人、行方不明者6,700人、怪我(入院O1,051人、怪我(通院)2,242人、避難者474,619人。崩壊した病院8、国民保健所232、健康事務所1。崩壊したモスク2,704、教会8、寺20.崩壊した小学校014、中学校155、高校67、職業高校15.
上の数字では分からないことなのだが、BBC記者がアチェ入りして驚いたのはバンダアチェで家々やベルは崩壊しているのにモスクがしっかりと残っていることだったという。田舎へ入っていったら、それと同じことが起こっていて、中には構造的にはとても持たないようなモスクがちゃんと残って、周りの他の建物は崩壊していたことが多々あったという。また、丘の上に避難した人が波に飲まれる街を見ていたとき、津波の水がモスクの前で二つに割れモスクにはぶつからないような感じになっていたという。スブハーナッラー。いろいろ驚異的な話がこれからも出てくるだろう。
2005年1月7日(金)経過報告 本ページ用書き下ろし
ムッケに向かった舅からはまだ電話がなく連絡がとれていません。テレビでは歌番組などが増えてきて私たちをイラつかせます。若手講釈師のアリフィン・イルハムが「いつまでも泣いてちゃいけない。前を見つめること。」と言っていたけれど、この出来事を忘れるという意味ではない。私たちは運命を受け入れ前向きに生活を創造していかなければならないのだ。
援助の届かない町トゥノム(同日インド・ポス紙より)
行政区の郡のなかで最も被害の大きかったアチェジャヤ郡トゥノム町(住民10,047人)には援助が届いていない。陸路はもちろん海路、空路においてもアクセスができなくなっているので、援助物資をヘリコプターから落とすという方法に頼っている。トゥノムの海岸は海が浅すぎるので船をつけることができない。この町の被災者イスマイルさんは「被害にあった日から私たちは毎日ご飯か澱粉の食事を1回しかしていない。」と語る。ヘリコプターからの物資援助だけではとても不十分なのである。彼と仲間たちは毎日1回、2時間かかるスピードボートに乗ってアチェジャヤ郡都のチャランに行き援助物資をもらってくるとトゥノムに戻るということを繰り返している。チャランにおいてさえ港が崩壊し船が横付けできない状態だという。トゥノムの被災者の数はいまだに明らかにされていない。大部分の家や建物は崩壊し、住民の半分ほどが亡くなったか行方不明になっていると考えられる。電気も復活してないしガソリンや石油燃料も不足している。数千人の避難者が空腹に耐えながら援助を待っている。
ムラボの様子(同日インド・ポス紙より)
人々と軍人、援助人たちが助け合って崩壊した家々の片づけをする姿が見られる。軍人は崩壊した家々に泥棒が入らないように監視しているという。街角では物売りも出てきたし、石油(石油コンロでお料理をする)も得られるようになった。一時は1リットル15〜20,000ルピアにも跳ね上がったが、現在ではプルタミナ(国営石油燃料会社)がイスカンダル・ムダ通りでタンク車を止め1人リットルを限度に購入できるようになった(ということは無料ではなく販売が行われているのだ)。
街角の壁に見られる落書きに書かれた「12月26日この世の終わり」または「12月26日津波」から人々はそのヒクマ(英知)を学び取り、その記憶をはるか彼方に捨て始めた。バンダアチェからムラボへの交通はいまだに切断されたままである。ムラボからメダンへの道は昨日開通しはじめたという。人々は数日前から開通し始めたムラボからナディアガラスカ経由でタケゴンに行く陸上ルートに頼っている。電気は夜に限り限られた地域で灯るようになった。自然が友達になり始めた。昨日の夕方、雨がやむ寸前、ムラボの空に二つの虹がかかった。まもなく、マグリブの礼拝時間を告げるアザーンが涼しく鳴り響いた。
8日間マラッカ海峡沖海上で救助を待ったリザル君(新聞やテレビなどからの話より)
建設現場作業員のリザル・シャフプトラ君(23歳)は8日間海上に浮かぶ家々の廃墟でできた「いかだ」の上での水や雨水を飲み、やはり流されてきた木の皮をむしって食べるなどをして命を持ちこたえながら救助を待っているところを通りがかりの船に救助された。海に落ちないようにずっと座っていたが、通りがかる船を見ては「いかだ」に立ち手を振っていた。多くの船は彼のことに気づかず立ち去ったという。マレーシアの病院に入院しているリザル君にはまだ歩くことができる体力があり、港から病院へ向かう救急車の中では方々からやって来て同乗した記者からのインタビューに答えることができるほど元気を持ちこたえていた。スブハーナッラー。しかし、彼は当初もう1人の男性と二人で「いかだ」に浮かんでいたという。もう1人の男性は海上に浮かび援助を待ち続けることに耐え切れず、陸を目指して泳いでいったという。互いの無事ともし死んだときのドゥアー(お祈り)を約束しあい別れたのだという。そのもう1人の彼の消息は不明である。
彼の家族は行方不明のままである。病院でインタビューに応じたリザル君はある記者に英語でインタビューされ「英語は分からないからやめて欲しい」と言って記者たちの笑いを誘っていた。インドネシアとマレーシアの言葉はほとんど同じであるのだから、こういう時にもインドネシア語は役に立つ。「生き残った秘密を教えて欲しい」と聞かれた彼は「秘密なんて知らない。ただ僕は被害にあって流されてすぐのズフル(正午)から救助される8日間の間、義務の1日5回の礼拝を欠かしませんでした。太陽を見てキブラ(礼拝の方向)と時間を知り、海水でウドゥー(礼拝前のお清め)をしました。起立すると海に転倒する恐れがあるので座ったままで礼拝しました。眠いときには眠りました。いつも、タスビー(3種のアッラーを称える言葉)とドゥアーをしていました。アッラーよ、もし私の両親と家族の命をあなたがお召しになっていたならば、いったい誰が生き残って来世の彼らにドゥアーすることができるでしょう。だから、私を生きながらえさせてください・・・とドゥアーしていました。そのドゥアーが叶えられたのです。スブハーナッラー。
わが子よ、助けられなくてごめんね(新聞やテレビなどからの話より総合してイチャが書く)
ある目撃者によるとその高さ17メートルもあったという津波は時速1,000キロとも言われるスピードで人々を襲った。逃げる時間もなくただ家の中で子供たちや妻を二つの腕で思いっきり強く抱きしめる。それでも、波のパワーは二つの腕を解かせ家族をバラバラにした。わが子を目の前にしながら助けられなかったという悔いが心の奥に残る。別の人の話では、彼は幼い子供を水の中で抱いていたが、腕の中に子供を引き止めることができなかった。「私は力尽きて子供を離したのではないのです。そうではなくて、私の腕が言うことを聞かなかったのです。」と語るそのお父さんの気持ちとは裏腹に彼の腕は力尽きて動かなくなってしまったということなのだろう。腕から離れた子供の行方は分からない。
救助に使用された数少ないゴムボートの最後の乗員になった被災者はボートに助けられたとき、水面で「私も乗せて欲しい」と助けを求められた。ボートの救助員は「ボートはこれで定員いっぱいなので、これ以上乗せれば私たちは転覆して全員助からない。悪いが乗せられない。」と言った。最後の乗員になった人も胸を苦しめながらボートともども立ち去った。その助からなかった人の犠牲の上に今の自分の命があるのだ。あの人のことが脳裏を消えない・・・と彼は語る。
2005年1月8日(土)経過報告 本ページ用書き下ろし
メダンを出発したはずの一昨日の昼間の連絡を最後に舅からの連絡がまだありません。在ジャカルタのアフマドさんと電話で話したところによると、彼の奥さんがバンダアチェから今日ジャカルタに帰ってこられるという。結局、ご実家のあったウレレ地区は瓦礫も遺体もまだまだ手付かずに近い状態で女性一人で入って行ける状態ではないということで、ご実家のあった場所にも行かれなかったようです。
以下、本日のメディア・インドネシア紙やテレビニュース他などより覚えている範囲でイチャが書きました。
金曜礼拝とハッジ団の出発
昨日の金曜日はバンダアチェのシンボル的存在バイトゥルラフマン・モスクでの災害以来初の金曜礼拝となった。先週の金曜日にはまだモスクは瓦礫の山で礼拝ができなかった。8,000人収容可能のこのモスクでは、通常金曜礼拝ではその庭までが礼拝者で埋まり、その数15,000人であるという。今回はいつもの3分の1、つまり5,000人ほどしかいなかった。
西アチェ州ムラボ市でも災害を免れたモスクで金曜礼拝が始まった。国立第1イブティダイヤ・マドラサ(イスラーム校)のモスクにて金曜礼拝が始まった時にはムラボの道々は人影がなくなった。同市ラグン地区では清浄な水の確保が難しく、人々はできる限り節約してウドゥー(礼拝前のお清め)をしていた。サルン(一般に男性が例は維持に着ける腰巻)を着けているのは1人2人で、ほとんどの人が薄汚れたズボンを着用していた。
州都バンダアチェのスルタン・イスカンダル空港から出発することになっていた5,552人のハッジ団は第18団に分けられ、うち1〜7団は災害前にすでに出発済み。第8団の325人がが出発を延期していたが昨日出発した。残りの10団が出発を待っている。ハッジ寮で被災し亡くなった人も多いとのこと。災害前に出発したアチェ出身のハッジ団の人々は聖都マッカにて大変な苦悩と戦っているという。私などが思うに政府は出発を中止した人々には払い戻しをするべきで、ハッジに行く人々も家族親戚が大変な目にあっている状況ではそちらを助けるほうに義務があるのではないだろうか。ハッジの義務は家族を養うとかいう現世の用事において問題がないという条件がつくものだと思っているのだが、、、。ハッジにかかる費用は大変大きく、それと同じ費用で私が日本へ2回帰国して戻ってくることができるのではないかと思う。
11日ぶりに救出されたお爺さん
瓦礫の中でどうやって生きておられたのか、スブハーナッラー、このお爺さんには外傷がないという。ただ、精神的また体力的な消耗が激しく、人にしゃべりかけられて一応答えるのだけど何を言っているかよく聞き取れなくて分からない。
瓦礫をブルドーザーで押しよけると大量の遺体が出てくる
遺体の収容は終わっていない。数百人の支援者(様々な団体などから送られてくる)や軍人、警官などがバンダアチェとアチェ・ブサル県の道々や河川、市場や住宅地で遺体整理をしている。現在まで収容されてない遺体は1万数千体にもなると考えられている。被災者の世話や遺体収容をしている支援者は全体では4,226人にのぼるという。一部はすでに帰途している。アチェ州全体ですでに収容された遺体は42,881体である。
バンダアチェとアチェ・ブサル県では遺体の捜索をしてない地域がまだあるという。例えばバンダアチェではカンプン・ジャワ(イチャの舅の弟の奥さんはここに住んでいたが助かった)、クダ、パサル・アチェ、プナユン、ウレレ(上述アフマドさんの奥さんのご実家があったところ)その他などがまだ手付かずのようだ。
遺体袋がないのでただのプラスチック袋に遺体を入れているという。発見された遺体は身元判別が難しく、体のいくらかの部分はすでに完全な状態ではない。支援者の役目は、遺体を袋に入れて車が通行可能な道路の脇にそれを置くことである。道路脇に置かれた遺体は警察と国軍のトラックに回収され、バンダアチェのブラン・ビンタン空港近くランバロ地域に用意されている集団埋葬地に運ばれる。そういえば、数日前に読んだ新聞であるお医者さんが火葬に反対していたが、宗教的な理由以外の理由のひとつとして身分証明書をはじめとした遺体の身元確認に役立つ物が同時に焼かれてしまうことをあげていた。今後、墓地が掘り起こされることがあり身元確認をする場合、火葬しないことは役に立つという。最近では火葬されている映像はテレビでは見ないが、災害後数日あたりの頃、その場で焼かれている遺体をテレビで見た。
遺体回収がはかどらない理由の一つに重機の不足があげられる。つまりブルドーザーなどで瓦礫をきれいにした後、初めてその下に遺体がたくさん出てくるのが普通なので、まずは瓦礫を除けることが必要なのである。支援者(今後は支援奉仕者と呼ぶことにする)としても瓦礫を重機で片付けてくれないとニッチもサッチもいかない。また遺体回収にあたる支援奉仕者のための靴(長靴のことか)、手袋、マスクや遺体袋も不足している。
集荷されているガソリンは多いのに被災地に出発するタンクは僅か
ムラボ市のトゥク・ウマル通りに近いイスカンダル・ムダ通りのガソリンスタンドを例に取る。ポリタンクを手にする人々が列を作りガソリンを買う。タンク車から直接ポリタンクにガソリンが注がれる。ガソリンを注ぐ係員によると、彼は二日前、国軍と警察による護衛付きの車の列に加わりメダンから出発した。「出発するタンク車はごく僅かだ。なぜだか分からない。確かなことは、私は任務を遂行するということだけだ。」と彼は言う。昨日7時間も列を作って待った挙句、ガソリンを手に入れられなかった人々の顔には今朝になって喜びが見て取れた。一人5リットルまでと制限され、値段は政府の正規価格1リットル当たり1,810ルピアである。道々の小売ガソリンは1リットル20,000ルピアまでも値上がりしている。2リットルのポリタンクを手にするダルゴさんは「私はチュッ・ニャッ・ディン空港近くのナグンからガソリンを買うためにはるばるやってきました。」と語る。一方、軽油は高く1リットルあたり5,000ルピアである。
プルタミナ(国営石油燃料会社)によると約100万リットルのガソリンと約67万リットルの軽油をすでに同地に供給したという。ある係員によると政府の公用車や援助に使われる車への供給を第一にしているので一般の人々にまで行き渡っていないのだという。
ムラボの援助状態
ムラボへの援助にあたって」陸路はいまだ使われることができない。港の崩壊で大きな船は港に横付けもできない。スピードボートや小船が援助物資を運んでいる。毎日僅か十数台のトラックがムボ内より港に向かう。空路による物資輸送はメダンから東南アチェ県ブランピディ市経由で行われている。ブランピディからムラボまではトラックで3時間かかる。
伝統的な市場は再開しているが物の値段が上がっている。いつもは1キロ5,000ルピアの唐辛子が10,000ルピア、いつもは1キロ5,000ルピアの赤小たまねぎが10,000ルピアしている。米などの必需品も高くなっている。お料理用コンロに用いる石油にいたってはムラボには皆無であるという。人々は焚き木を使って調理している。現在まで電気は復活していない(昨日の別の新聞では一部復活したと言っていたようだが)。電話も同様。ムラボで生き残った人々は家族に連絡を取ることもできない。
2005年1月9日(日)経過報告 本ページ用書き下ろし
舅からの連絡
舅と一緒にアチェに発った甥のPからのショートメッセージによると、舅は予定通り現在実家のあるムッケにいるとのこと。バンダアチェからメダンに着いたPと被災者のRちゃんその他がムッケに向かっているという。
いまだ8つの郡がアクセス困難になっている(同日メディア・インドネシア紙より)
インドネシアの死者はAFPによれば113,306人、インドネシア共和国社会省によれば104,055人。災害から丸2週間を過ぎた現在も、8つの郡へのアクセスが困難になっている。このうち6つの郡が西アチェ県に位置する。スアック・ティマー、クアラ・ブボン(サマ・ティガ郡)、トゥモン、クデ・パガ(トゥモン郡)、クデ・クルンサベ、チャラン(クルン・サベ郡)、ラグン(スティア・バクティ郡)、パテッ、ババー・二パー、ロッ・クルット(サンプニエッ郡)、ランブソエ、ラムノ(ジャヤ郡)の6つの郡である。
ロン郡のロン地区とパロ地区、ロッガ郡の大部分の地区では道路の損傷がひどく通行できなくなっている。アクセス困難になっている地域はすべてムラボ市と西アチェ県とロッガ市、アチェ・ブサル県の間225キロにわたる海岸線沿いの道に位置している。一方、南アチェ県からムラボ市へと入るルートには崩壊した橋の代替橋が国軍によって作られ、金曜日より通行可能となっている。
十分な援助を得ることができない様々な地域から数百人単位の人々がバンダアチェやアチェ・ブサル県に徒歩で移動している。チャラン市から徒歩でバンダアチェに到着した数十人の避難民は、バンダアチェまで7日間かけて歩いたことを明らかにした。バンダアチェ〜チャラン間の道路再建設には2年を要するという。
ムラボは食糧不足になんかなってない!?(同日メディア・インドネシア紙より)
ムラボ市の食糧不足を国軍トゥク・ウマル012派出所指揮官大佐が否定している。最悪でも5日のうちにはムラボの食糧不足はなくなる(ということは現在の食糧不足を認めているということか?)という。西アチェ県知事によると援助物資は被災者に集中して配分されておらず、被災していない住民にも流れているという。避難所の避難民の数や名前を正確に掌握しているところはまれで、ほとんどの避難所ではそのデータを記録化していない。避難所で必要な物資は何であるかを把握されてなく、援助物資は任意で送られてくる。今、一番必要とされている物資は乳幼児用のミルクまたは食べ物だという。乳幼児の大部分は下痢になっており、食べ物の不足が起因しているという。
モスクの若者が避難民の世話をしている(同日メディア・インドネシア紙より)
アチェ・ブサル県のウレカレン郡の避難所ではモスクの若者が避難民の世話をしている。郡側では何も世話をしていない。村長も郡長も被災していないという。中央ジャワからの援助活動家たちの協力を得て若者たちは避難民たちをコーディネイトしている。
ジェウ・ガジャとマタイでは非常時学校が開き始めた。バイトゥルマル・ムアマラット(イスラームの保険制度のようなものを運営している団体だとだと思う)が避難所の子供たちを対象に始めたもの。援助活動家の不足で2ヶ所のみとなっている。
アチェ外からやってきている援助活動家は交代もされている。すでに長く活動した者が新しい者と入れ替わる。
遺体を持ち上げようと手を引っ張ると手が抜け、足を引っ張ると足が抜ける(同日メディア・インドネシア紙より)
国軍は様々な団体などから派遣されている援助活動家と協力して遺体回収を行っている。援助活動家の中には、バンダアチェから10キロのダルッサラームのシア・クアラ大学の「アチェのためのウフウワ・プムダ・チーム」や支援所の中心になっているジャマア・ムスリミンの若者たちがいる。彼らは遺体回収を行う傍ら、昼間は被災した子供たちにクルアーン読誦を教え、夜は大人たちにクルアーンとハディースを教えている。バンダアチェでは表通りは片付いてきたものの、その他の地区ではいまだ回収しきれない遺体が残っている。遺体の損傷度はひどく、手を持ち上げれば手が胴体から抜け、足を持ち上げれば足が胴体から抜けるという。(一部コレラ感染防止のワクチンを注射しているようだがおそらく全部ではないだろう。)病気の感染を恐れながら遺体回収にあたる。国軍はまたとウェ島の北にて遺体回収を行う予定だ。海岸にはいまだ回収されない遺体があるという報告を受けているという。同島の被災者ではなくスマトラ島から流れてきた遺体が海岸に打ちあがっているようである。
2005年1月10日(月)経過報告 本ページ用書き下ろし
ムラボに行った舅
夜7時半に舅から電話があった。とぎれとぎれの電話で話したところによると、舅は現在、甥のPとバンダアチェの被災者である姪のRちゃんとその母親とともにムッケの実家にいるという。Rちゃんの父が舅の弟Sさんであるが、彼と他の子供たちは見つかっていない。Sさん一家は仕事の関係でバンダアチェに住んでいたがアチェ・シンキル県に家があるという。アチェ・シンキル県はムッケ郡のある南アチェ県より更に海岸沿い東南にあるアチェ州最南の県で災害の被害はほとんどなかった。
舅は2日前(ということは8日の土曜日)ムラボに行って義捐金を配り終えたという。舅の姉WRさん一家の消息はなかったらしい。明日、甥Rとともに上述シンキルのSさんの家にRちゃんとその母親を送りに行って、その足でメダンに向かう、メダンから飛行機でジャカルタへ戻る。電話は途中で切れてしまったので、詳しいことは話をしていない。とにかく今は舅が無事でよかった。
2005年1月11日(火)経過報告 本ページ用書き下ろし
メダンに着いたら連絡してねと伝えてある舅からの連絡がまだありません。毎日、主人や姑や義弟などが様々な新聞(といっても選んでいます)を買ってきてくれるので、時間があると新聞にかじりついています。その傍ら、時にはテレビにも目を向けるといった感じの毎日で、他の事に手をつける気分がしません。以下、昨日のメディア・インドネシア紙とトゥルビット紙、今日のメディア・インドネシア紙やテレビなどの話より。
73歳のお爺さんが9人救助(昨日のトゥルビット紙より)
ロクスマウェ市クムキマンのジャンボエ・マスジド村のユヌスさん(73歳)は漁師。災害の当日、スブフの礼拝(早朝の礼拝)をして日が昇るころ、いつもは漁に出かけるのだが、この日はなぜか気分が乗らず庭でココナツの実を集めていた。すると、海岸のほうから水の音が響いてきた。はじめはただの満ち潮だろうと思っていたが、ますます近づく強烈な水音の響きに危険を感じ、孫と息子に向かって叫んだ。家族たちはすでに水を逃れて走っていたあとであった。水の速度には勝てず彼は飲まれた。それでも、頑張って泳いだ。水に浮かぶ一切れの板を見つけるとそれを「舟」にした。水の流れに従って「舟」もまた流れていった。水はどんどん高くなっていく。見ると水面で何人かの人が救助を求め手を振っていた。「私はとても彼らを見捨てることはできませんでした。かなり危険な状態でしたが私にはまだ救助をするだけの力がありました。」と彼は語る。彼は溺れそうな一人を見ると自分の「舟」になっていた板をその人のところに投げた。そして、自分の「舟」になる板を探してまた泳ぎ、また溺れそうな人をみるとその人のところにも自分の板を投げた。このようなことを繰り返し9人の人を助けたという。「彼らも助かった。私は感謝します。」と彼は言う。
アチェ沖インドの島で火山が噴火
インドのアンダマン諸島とニコバル諸島の間にあるバルレン島で火山が噴火しているという。12月26日(つまりスマトラ沖大地震のあった日)、同地域は震度9の地震に見舞われて以来のことだという。溶岩が海に流れ出るのを住民たちによって確認されている。1996年に最後の噴火があって以来のこととなる。同じようにアンダマン諸島のバラタン島でも地震と火山の噴火がおこっている(昨日のメディア・インドネシア紙)。地図で見るとアチェってインドに本当に近い。どおりでアチェの人はインド人のような顔をしている。スマトラ島は北にニコバル諸島、アンダマン諸島、そしてミャンマーのアラカン山脈へと火山帯(だと思う)が繋がっているようだ。スマトラ島から東へはジャワ島、バリ島、ロンボク島、、、そしてフローレス島へとやはり火山帯(だと思う)が繋がっている。フローレス島では1992年に大地震があった。ジャカルタに住んでいるとめったに地震にあうことはないのだが、ジャワ島とスマトラ島の間、スンダ海峡のクラカタウ山は昔々海の中から活火山が出現して島になったことなどもあるし、何百年という周期で大地震がやってくるのかもしれない。最近でもジャワ島の一部で地震があったりするので、この火山帯の上ではどこで地震があってもおかしくない。みなさん、インドネシアの海には今行かないように。
援助配給に偏り〜避難所雲泥の差?〜(今日のメディア・インドネシア紙より)
共同台所? そんなもんはアチェ災害避難所にはめったにない。昨日までの三日間同紙記者はロクスマウェ、バンダアチェ、ムラボの三ヶ所で避難所の台所の有様を見た。
西アチェ州ムラボ市ではムラボ2職業高校避難所のテラスや路地で人々は休んだり料理をしたりしている。この避難所はジョハン・パハラワン郡カンプン・ウジュン・バルとスワインドら・プリ郡カンプン・ブロウォルの避難民数千人を収容している。カンプン・ブロウォル出身のエファさん(40歳)は、災害があってから今日まで共同台所はないのだと言う。焚き木を使って個人個人で料理する。女性たちがなけなしの道具でご飯を炊く。石油コンロもなければ石油もない。飲み水を沸かしたりご飯を炊くための鍋もない。人々は石の台の上にミルク缶をのせて料理する。カンプン・バル出身のヌルティマさん(45歳)は消えかけた焚き木を何度も吹いていた。そのうち炎がでて燃え出した。石の上に娘が大きな中華なべを置いた。鶏や魚ではな料理されているのは野菜だった。彼女の家は波にさらわれ無くなった。ここの避難所では毎日家族長一人につきミルク缶1杯の米が支給される。おかずや調味料はない。「昨日はご飯を塩で食べました。」と前述のエファさんは言う。ヌルティマさんによると、おかずはとても高くて、3つの赤小たまねぎが1,000ルピア、普段は100ルピアの一切れのテンペが300ルピアもする。
ロクスマウェ市バンダ・サクティのヒラ広場避難所、また、北アチェ州バユ広場避難所でも、共同台所がないばかりか、避難民は同地の有志の人から食料援助があるのみだという。同紙記者は避難民のズライハさんの4人の子供が1包みのご飯を分け合って食べているのを見た。
バンダアチェ市のインドネシア国営放送局広場避難所でも同じようなことが起こっている。共同台所はない。食料支給はあるが自分で料理しなければならない。石油コンロも支給されるがすべてに行き渡っているわけではない。テントの外にコンロや焚き木があった。
アチェ・ブサル県ムラボ市ウングル学校避難所では上記とは別の風景が広がっている。ムラボ市ジョハン・パハラワン郡ウジュン・カランの西アチェ警察寮住宅街の住民が数百人ここには収容されている。広場の中央には共同台所があり、中華なべや調理道具が一つの大きなテントの下にある。数人の男性が忙しくコンロで料理をしている傍ら、女性たちはやはり忙しく調味料と野菜の用意をしている。彼らはスブフ(早朝)の礼拝後からマグリブ(日没)の礼拝後まで休まず料理し続ける。毎朝7時には麺、熱いコーヒーや紅茶がすでに用意されている。彼らは食料はじめ他の援助物資においても過不足なく、北スマトラ地方警察地域の警察の数々から食料が送られてくる。避難所近くのムラボ・ウングル高校のある室内は援助物資であふれていた。「ここでは援助物資は豊富にあります。インスタント麺やその他食料のダンボールの山の上で多くの人が寝るほどです。」名前を伏せて欲しいという警官の一人が言った。
空港が間に合わない(昨日のメディア・インドネシア紙より)
アチェ州全体で7つの空港のうち4つが災害のため使えなくなっている。また、アチェ州全体で17の港のうち9つが災害で使えなくなっている。バンダアチェの空港では通常1日11便があるだけだが、今回の災害で1日129便までになっており24時間飽和状態である。
15日間後に救助されたアリ君(今晩のメトロ・テレビのニュースより)
アチェジャヤ県チャラン市のアリ・アフリザル君(22歳)はインド洋の海上で15日間浮かんでいた末、マレーシアに行く通りがかりの船に救助された。波は4回あったという。津波が押し寄せてきたとき彼は山の方向に走ったがどんどん高くなってゆく水に飲まれてしまった(1回目の波)。次にまず右側から次に左側から強烈な波がやってきた。彼は水に飲まれ何もつかめなかったが顔を出すように努力し、泳いで板切れ(あるいは木材)を探しそれにつかまった。4回目の波がやってきてその波は沖に流れていった。5日後に小舟が流れてきた。小舟には穴が開いていたので何かで塞いだ。板にかわってこの小舟で過すことになる飲料水のガロンが舟のなかにあった。同じく5日目あたりにココナツの実が流れてきた。彼は木材か何かでココナツを何度も何度も突き刺して開け、中の水を飲み、果肉を食べた。「私は死ぬことは考えませんでした。毎日5回の礼拝を欠かさずしました。アッラーに命じられたことですから。」と彼は言う。15日の間2回雨に降られた。背中や腕は日に焼けて水ぶくれになった。最初はシャツを着ていたが無くなった。仕舞いには身に着けているものは短パンのみとなった。テレビで見た病院での彼の姿はとても15日も海で浮かんでいたような感じはなく、元気でかつくつろいでいる感じだった。強いなあと思った。スブハーナッラー。
2005年1月12日(水)経過報告 本ページ用書き下ろし
舅が帰ってきた
メダンから連絡を受けることなく、舅は今日の夜突然帰宅した。舅が健康でアルハムドゥリッラー。一部すでに現像した写真を見ながら舅の報告を聞く。家族みんな興奮して舅は質問攻めになったので、私も要点のみ訊いて舅の作ったメモ類などを預かった。詳しいことはメモに目を通してからまた訊こうと思う。
皆さんからお預かりした義捐金はざっと見た感じでは予定の額を超えているようだ。何しろ混乱しているので、お金の封筒をいちいち出している暇もなく自分用の旅費の中から被災者に渡したりしたそうだ。
バンダアチェでは舅の従兄弟の避難している家に泊まった。その家の持ち主は家を失った彼らに住まいを提供しているのだそうだ。この従兄弟は軍人で被害にあった日は朝から海辺へ釣りに出ていた。大地震のあと海の水が沖に引いて、水のなくなった海岸には逃げ遅れた魚がぴちぴち跳ね上がっていたという。この光景を見て不吉を感じ取った彼は家に帰ることに決める。乗ってきたバイクで走っていたとき波にのまれそうになり、バイクを置き去りにして丘の方向に走りに走って助かった。奥さんと娘さんも無事だったのだが、大学に行っていた娘さんがすごいショック状態のようである。彼女からイチャの夫に宛てた手紙があるので後日紹介しようと思う。
故郷のムッケからムラボへはバイクに乗せてもらって3時間かかったという。ムラボの姉の家は浴室の一部だけ残して全部流されて跡形もなかった。舅によると家は2階建てだったという。レンガ壁(レンガの上からモルタルを塗りこめるインドネシアでは普通の壁)も浴室の一部を残し全部無くなっていた。この写真を見て何とも胸が締め付けられる思いがした。
舅の故郷ムッケにはバンダアチェに出稼ぎで出ていて被災した人々が実家や親戚の家などに避難している。災害には遭わなかったここの村でも電話は通じず、電気は夜しか点かない。バンダアチェやムラボでは電話はおろか電気も点かない状態だったという。舅はまたアチェで毎日のように地震があったと言う。
詳しくはまた明日か後日に書きます。インシャーアッラー。
この続きは以下のページをご覧ください。
アチェ津波義捐金募集2
(写真集)
アチェ津波義捐金募集3
(災害の波紋)
アチェ津波義捐金募集4
(義捐金分配の旅報告)
アチェ津波義捐金募集5
(義捐金配分の旅会計報告)
アチェ津波義捐金募集6
(被災体験談)
アチェ津波義捐金募集7
(被災者学生からの手紙)